最近は「舟を編む」や「図書館戦争」など、「本」にまつわる映画が続けて公開されていますが、自衛隊が撮影に全面協力したことでも話題になった「図書館戦争」(「空飛ぶ広報室」でも協力してますが)の方では、本やメディアが検閲される世の中が舞台です。
そういう国は今でもあります(特に日本の周辺には)。かつての日本もそうでした。しかし、こういう国はいつか破綻するものです。
※映画「舟を編む」予告編
※映画「図書館戦争」予告編
映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」では、ショーン・コネリー演ずる考古学者の大学教授がナチスの幹部に「(この本は)焼かずによく読めと書いてあるんだよ」というシーンがあるし、古代では中国の始皇帝が建国した秦が「焚書坑儒」をしましたが、ここも長続きしませんでした。
また、ハインリヒ・ハイネは、戯曲『アルマンゾル("Almansor")』で、『本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる』という警句を残しており、そのハイネの本もナチス焚書の対象にされています。予言通りになってしまいましたね。
SFでは「華氏451度」という、レイ・ブラッドベリの名作があります。華氏451度(摂氏233度)は、紙が燃え出す温度(引火点)で、書物が燃やされる暗黒の未来社会が舞台です。
※ Fahrenheit 451
(1966年の映画。監督はフランソワ・トリフォー)
そういえば、、ショーン・コネリー主演の映画で「薔薇の名前」という中世の修道士会を舞台にしたミステリー・サスペンスがありましたが、これも、異端を嫌うキリスト教の教会関係者が知識や書物を隠しているお話でした。
※The Name of the Rose Official Trailer #1 - Sean Connery Movie (1986) HD
世の中に少々アングラ本が出まわるからといって、権力を持つ役人や政治家に検閲させると、必ず社会はおかしな方向に進みます。そもそも”検閲大好き役人”の頭の方が大概は支配欲と虚栄心の塊、あるいはコチコチの単細胞で”おかしい”ものです。この場合は“まじめ”だとかえって手に負えないのです(本を読むことは読むが、「正典」「教科書」のオウム返し以外は一切認めない超単細胞な人たちなので。一種の”原理主義”ですな)。
戦前の日本にも検閲に断固反抗した宮武外骨という、香川出身のジャーナリストがいましたが、特高警察や神がかり的なテロリスト(社会の矛盾が大きいのに発言の自由がなければ”実力”に訴える者が増えるのは論理的帰結。治安関係法をいくら作っても、そもそもが無法者なんだから減るわけがない。警察の捜査がでたらめになり、職権乱用が続発するだけ。特高もテロリストも同レベル)がうろつき、言論や表現の自由の無かった日本は結局、破滅へ向かってしまいました。
政府や軍部の戦争指導も実は絵に描いたような「お役所仕事」で、敗戦にむかって一直線でした(何しろ誰も批判できませんでしたから。敗戦は物量だけの問題ではないし、戦場の兵士がどんなに超人的に奮闘しても、戦争指導や補給システムの欠陥をカバーするのは無理です。逆に文字も読めず算数もできない兵隊だらけでも戦争に勝つ国は勝つ。戦争は”競技会”ではないからです。情報戦や陰謀戦、宣伝戦や経済戦でも最初から負けている訳。”美しい御旗”を振れば相手が畏まってくれるのは同じ日本人同士だけです)。
KGBや秘密警察(ナチス・ドイツで言えばゲシュタポ。旧東独ではシュタージ。北朝鮮なら国家保衛部。中国なら国家安全部 etc.)が幅をきかせ、トンチンカンな産業計画経済を国民に押し付けていたソ連(Union of Soviet Socialist Republics:ソビエト社会主義共和国組合…いや連邦。労働者が過保護だったから国が崩壊した訳じゃありません。名前と逆に国民が抑圧されていたから経済がうまく回らず自壊したのです)や東欧の独裁政権も崩壊したし、独裁者が威張り散らしていたアラブ諸国でも2010年からドミノ式にジャスミン(民主化)革命がおきましたし、中国寄りの軍事政権が長らく支配していたミャンマーも最近ようやく民主化しました(逆に中国では思想統制が強化されつつあります。戦前の日本みたいに)。
憲法がどう改正されても、個人の基本的人権や言論の自由は譲れませんね。形式上「自由」でも政府や役所の一存でどうにでもなるというのでは、強権的な今の周辺各国と同じです(どこの国でも建前ではご立派な憲法や法律があるものです)。
自由がない社会では報道だけでなく、ネットのこんなブログなんかも規制されるでしょうし(現実に中国ではそうです)。今は世界で大人気の「クール・ジャパン」も消滅でしょう。
現代日本の防衛力も、自由な日本国の主権と国民の生命財産を守るためにあるので、政治家や役人の権力維持のためにあるんじゃありません(対外国の「防衛出動」ではなく、国内向けの「治安出動」ってのは、自衛官が一番嫌がる仕事で、現在まで例はないし、日本では警察に機動隊があるので、今後も考えにくい任務です)。某”憲法草案”が成立すれば、自衛隊は「国防軍」か「自衛軍」に昇格かと思いきや、実質国内向けの「治安軍」に格下げでしょう。「警察予備軍」か「保安軍」ですかね。しゃれにもなりませんね。
改憲議論は結構ですが、”草案”の条文は、9条問題以外も、隅々まで全部見ておく必要があります。特に個人を否定する考え方には注意が必要でしょう。個人なくして自由なし。世界的にも民主化が進むこの時代に、国家統制主義が大好きな方は、最近、見かけ上景気のおよろしい某隣国にでも移住することをオススメします。
憲法改正要件の緩和が提案されてますが、さて、全国に何百万人もいる公務員諸氏は試験の際に、例外なく絶対に憲法についても学習しているわけで、日々の仕事も法律に基づくから問題意識は嫌でも高い。すると、むしろ、改正手続きを提案している政党よりは、公務員の労組と関係が深い政党の方に有利になるかも。そうでなくても、政権が変わるたびに改憲発議されるのも、国民としてどうかと思います。
やたらに国家統制を強めたい”識者”がいるようですが、法律は「作る」のと「運用する」のは「別人」。できた途端に勝手に解釈されて独り歩きします(だから三権分立、特に司法を独立させているのです!なお、裁判も完全ではありませんが、明治の大津事件以来、司法の高い独立性は近代日本の誇りの一つです)。
自分で作った条文が、将来の自分の首を絞めることに気づいてない、お利口なお偉いさんが最近多いみたいですね。
*以下にも参加しています。
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